企業情報

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1950年代のあゆみ

需給安定と経営基盤の構築

終戦直後のモノ不足やインフレーションによる混乱状態からようやく復興しかけた1951年、日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、自由主義陣営の一員として独立、高度成長への第一歩を踏み出した。
九州電力はこの年の5月に創立した。
まさに日本が経済的自立を始めた時代で、増大する電力需要に対して安定供給を図るため、電源の開発と輸送設備の増強に努めるとともに経営の基礎固めをおこなった。

時代背景

経済復興と消費社会の到来

この10年間は、日本がサンフランシスコ講和条約の発効で占領時代から独立、朝鮮戦争の勃発にともなう大量の特需で高度成長へのステップを踏み出した時代である。
産業界が目指したのは技術革新と設備投資、企業の合理化、近代化であった。鉄鋼・石油化学・造船などが主産業となり、家電機器、乗用車の生産も始まった。日本経済は朝鮮戦争を契機に好景気に突入した。神武景気、岩戸景気と続く好況は暮らしを豊かにして、家電ブームといった大衆消費社会を生み出した。

電気事業の再編成

電力業界は、第2次世界大戦中、国家管理のもと発・送電部門1社と配電部門9社で運営されていたが、1951年5月1日、全国を9ブロックに分けた発送電・配電一貫の電力会社に再編され、九州電力を含め9社の新会社が誕生した。

増大する電力需要

創立当時の電力需要は、年間販売電力量で41億kWhであったが、朝鮮戦争以降の好景気、その後の高度成長に伴って年々増加し、1960年度には89億kWhと創立時の2.2倍(年平均伸び率9%)に増加した。
これを供給種別にみると、産業の近代化による鉱工業生産の増加が著しかったことなどから電力需要が電灯需要の増加を凌ぎ、電力需要の構成比は、1951年の84%から1960年には85%と約1%増加し、逆に電灯需要は16%から15%に滅少した。
電灯需要は、国民の生活水準の向上につれて安定した増加を続けた。蛍光灯から始まった家庭電化機器の普及は逐次その範囲を拡大し、電気釜、電気こたつ、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機などが急速に普及したいわゆる第1次電化ブームなどにより、電灯需要は1951年度の6億5000万kWhから1960年度には13億3000万kWhに増加した。
一方、電力需要は朝鮮戦争による特需景気、それに続く神武景気・岩戸景気を背景とした産業の量的拡大などにより著しく増加し、1951年度の34億5000万kWhから1960年度には75億9000万kWhに増加した。
これを産業別にみると、創立当時は大口需要の約50%を占めていた石炭産業がエネルギー革命の影響でわずか1.2倍の伸びにとどまり、かわって高度成長の波に乗り鉄鋼が4.9倍、セメントが7.2倍、化学が3.1倍と高い伸びを示した。

設備の拡充と近代化

需給不均衡から安定供給へ

創立当時は、第2次世界大戦による電源設備の荒廃、朝鮮戦争による特需景気を反映した需要の急増などにより全国的に電力需給が逼迫していたが、九州電力も例外ではなかった。
このような需給不均衡から脱却するため、港・築上・相浦の火力発電所を中心に積極的な電源開発を進めたが、それでも増大する電力需要に対応できなくなった。そこで、わが国最初のアーチ式ダムによる上椎葉発電所(9万kW)や、大村発電所1号機(6万6000kW)・苅田発電所1~3号機(出力計38万7000kW)などの大容量新鋭火力発電所を建設し、その結果、全国に先駆けて需給は安定した。
このような設備の開発拡充には膨大な長期資金が必要であったが、九州電力は1953年、苅田発電所1期工事の資金として、戦後わが国で初めて国際復興開発銀行(世界銀行)から約38億円の融資を受けたのに続き、1956年、1957年にワシントン輸出入銀行から、1961年には世界銀行から借款を受けるなど低金利の長期安定資金を確保することができ、資金調達面および収支面で大いに役立った。

22万ボルト送電線の拡充強化

創立時、九州の基幹系統は11万ボルトで構成されていたが、1957年、山家変電所から上椎葉発電所に至る中央幹線が22万ボルト送電線として運用を開始した。さらに、1959年の西谷変電所と山家変電所間の北九州幹線の完成により、北部の火力電源や需要地帯と南部の水力電源地帯が22万ボルトで連系され、22万ボルト送電線は九州の基幹系統となった。
また、22万ボルト設計の新関門幹線は本州との連系を強化し、広域運営を進展させる契機となった。

離島供給設備の増強

創立当時、離島における電力供給時間は、夜間5時間程度であったが、1952年5月には7時間に、1954年9月には13時間に供給時間を延長した。1955年9月には「離島電力増強5か年計画」を策定し、一層電力施設の拡充強化に努めた結果、1960年度末にはほぼ全地域で24時間送電が可能となった。

周波数の統一

わが国の電気事業は、発足当時25Hz、40Hz、50Hz、60Hz、120Hzなど多様な周波数を採用していたため、効率的な電力系統の運用が阻害されるばかりでなく、電源・輸送設備のコスト増につながるおそれがあった。
九州でも周波数は50Hzと60Hzが混在していたため、九州電力では60Hzに統一する方針を策定し、第1期工事(1949~1951年)、第2期工事(1954~1960年)を経て、九州の周波数統一を完成させた。

収支安定を目指した電気料金の改定

創立当初から数年間は、相次ぐ設備投資による資本費の増大などにより料金原価が上昇したため、電力各社とともに九州電力も料金改定を行い、1951年に38.7%、1952年に36.9%、1954年に3.0%と3回にわたり、立て続けに料金の値上げを実施した。
また、1955年以降も需要の急増に対処して膨大な電源開発を実施したため、収支が悪化し、1961年に10.5%の料金改定をおこなった。

健全な労使関係の醸成

創立当時の組合組織は,産業別統一組織である日本電気産業労働組合(電産)であった。この電産は1952年に電源・変電職場ストを行うなど、その強硬な争議行為は世論の厳しい非難を浴びたことなどから、1953年にスト規制法が制定され、スト行為に制限が加えられた。
このような状況のなかで、電産の統一組織にも亀裂が生じ、電力各社で相次いで企業別組合が結成されることになった。九州電力においても、1952年12月に九州電力労働組合(九州電労)が結成され、1957年7月に電産九州地方本部が解散したのを契機に、同年8月末に企業別組合として組織統一を果たした。しかし、1958年10月に九州電労の活動方針を不満とする一部組合員が全九州電力労働組合を結成し、労働組合は二つに分裂した。
このため、九州電力は、路線の異なる二つの組合併存の道をたどることになったが、それぞれの組合と労働協約を締結し、団体交渉、労使協議などを図り、健全な労使関係の確立に努めた。