エネコミ

2016年10月配信

2016年 6月15日
[連帯 熊本地震・電力復旧の闘い](2)

◆大分からいち早い支援/発電機車維持、総力戦で

 ごう音とともに下から突き上げる激しい揺れが1分ほど続いた――。
 九州電力日南配電事業所設備保全グループの上田徹グループ長は、4月14日に発生した前震の後、熊本県合志市の自宅に帰り、片付けに追われていた。一息ついていた16日午前1時25分頃、経験のない揺れに遭遇。自宅とその周辺は停電しなかったが、家族の安否とともに真っ先に思い浮かんだのは「電気は大丈夫か」の一言だった。
 送電線損壊で送電不能となった一の宮地区(阿蘇市)で電力復旧の中心を担ったのが、上田グループ長と、大分エリアの社員だ。大分の停電復旧にめどが立った16日昼、10人の先発隊が同地区へ向かった。前線基地を整え、最も早く応援に駆け付けた四国電力の高圧発電機車とともに、午後3時頃から市庁舎、警察署、避難所となっていた体育館など重要施設へスポット送電を開始。各施設には非常用発電機があったが、照明程度しか供給できない施設も多く、満足に電気が使えない状況が続いていた。いち早い電力インフラの復旧に多くの住民が勇気づけられた。
 重要施設の停電は解消されていったが、その夜は信号もついていない状態。辺りは暗闇に包まれた。しんとした町を目の当たりにし、大分配電事業所の杉田博之技術リーダーは「発電機車が足りない中、この町を全復旧できるのか」と不安を感じたが、続々と到着する発電機車の接続をがむしゃらに続けていった。

 ◇軽油確保急ぐ
 17日夜、スポット送電から区間送電に切り替わり、民家への送電を開始。発電機車を配電線に接続しても、エリアの需要によっては過負荷で再び停電してしまう可能性もある。手持ちの発電機車の容量と、同地区における過去の需要実績を基に最大負荷を算出。その区間に何台必要か、臨機応変な判断が迫られた。
 他電力の応援を受け、停電が解消したのは20日午後7時頃。その瞬間、上田グループ長は喜びよりも先に、送電線の復旧まで発電機車を維持していく厳しさを感じていた。発電機車は本来、何日も連続運転することを想定していない。現場では専門技術を持つ社員とメーカーの担当者が、故障時に修理できる態勢を構築。軽油の調達・供給は本店の資材部門が24時間態勢で担った。
 「南海トラフ地震に備え、非常災害時の供給協定を石油販売会社5社と結んでいたことが初動で生きた」(永友清司・業務本部資材部長)。高森地区と合わせ、石油連盟や全国石油商業組合連合会、他電力の協力を得て、ミニタンクローリー50台、ドラム缶約700本を確保するなど、連続運転の実現には他社の協力が欠かせなかった。

 ◇綿密な手順書
 停電復旧から約1週間後の27日午後10時、ついに送電線が復旧したが、現場はまだ、喜べなかった。各電力の発電機車が至る所につながる中、系統電力へ安全に切り替えるためには綿密な作業手順の確認や、配電監視を行っている大津配電事業所との打ち合わせが必要。上田グループ長らはいつどの車両を切り離すか一台一台の手順書を作り上げた。
 27日夜に行われたミーティング。各電力の代表者らおよそ50人が前線基地に集まる中、上田グループ長が壇上で「いよいよ明日、商用電源に戻します」と宣言した。最後の任務を前に、会社の垣根を越えて一つになった瞬間だった。高森地区は切り替えが完了し、残るは一の宮地区のみ。全社の注目を集める中、日頃の技術訓練で鍛錬はしているが、安全に作業を終えられるかどうか、その夜は気持ちの高ぶりと緊張で眠れない人もいた。
 切り替えは28日早朝から始まり、同日午後9時36分に無事終了。前例のない規模の発電機車を、10日以上扱ったミッション。作業後は皆、喜ぶよりも精魂使い果たした様子だったという。上田グループ長は一連の復旧を振り返り、「競争の時代にもかかわらず、自社のエリアであるかのように力を尽くしてくれた」と各社の支援に感謝を惜しまない。(特別取材班)

(電気新聞2016年6月15日付1面)