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安左エ門の詳細(年譜・生涯) >>
九州電力 沿革一覧表 >>
電力中央研究所には安左エ門の人柄、性格をうかがい知る、ユニークなエピソードや名言が多く残されています。このシリーズでは同研究所・広報グループの堀切さんに、安左エ門にまつわる…
前回は、電力中央研究所の小島所長に、今なお所員に根付く松永スピリッツなどについてお話しをうかがいました。今回は、この松永スピリッツを所内に浸透させるため、社内広報誌で…
-「予が二十余年前、東邦産業研究所の所長となりし時、産業研究は、知徳の錬磨であり、もって社会に貢献するべきであることを悟った。但し科学の進歩は累積と推理に由り、無限の発展を…
長崎県壱岐の「松永安左エ門記念館」を訪れ、これまで17回にわたり、「電力の鬼」「電力王」と呼ばれる安左エ門の足跡を辿ってきました。第2幕は、安左エ門が創設した「電力中央研究所」の…
ここまで、15回にわたって長崎県壱岐にある松永安左エ門記念館の定村館長にお話をうかがいながら安左エ門の功績や魅力について紹介してきました。今回は、「壱岐シリーズ」の最終回…
松永安左エ門記念館の定村館長に、晩年の安左エ門について、語っていただきました。「神奈川県小田原の自宅で茶道を楽しみながら静かな暮らしを送りますが、多くの政治家、実業家が…
昭和25年(1950年)、悲願の電気事業民営化を成し遂げたとき、安左エ門は76歳になっていました。その後も電力中央研究所の理事長として80歳にして3か月に渡る欧米視察に赴くなど、…
昭和26年(1951年)、電気料金の大幅値上げを断行し、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門。9電力体制と同時に、安左エ門は電気事業共通の研究所を作ることにも着手していました。…
松永安左エ門の熱意がGHQをも動かし、ついに9電力体制が実現しましたが、戦時中の酷使や被災により、電力設備は極めて悪い状態に陥っていました。昭和25年(1950年)に…
74歳で現役に復帰し「電力事業再編成審議会」の委員長に就任した松永安左エ門は、以前から構想を持っていた「電力9分割案」を提唱します。電力9分割とは、既存の日本発送電の…
終戦を迎えた1945年(昭和20年)。松永安左エ門が現役を退いてから、すでに10年の月日が流れていました。占領軍総司令部(GHQ)は、日本の民主化政策として、財閥解体、農地開放…
実業界の表舞台から完全に身を引いた松永安左エ門は、埼玉県所沢市の山荘で閑居生活を始めます。安左エ門の実業界での豪腕ぶりは有名ですが、茶人としても名を馳せ…
1922年(大正11年)に誕生した当社の前身である九州電燈鉄道と中部電力の前身である関西電気が合併して「東邦電力」が誕生し、安左エ門は副社長に就任しました。東邦電力は…
1909年(明治42年)に福博電気軌道を設立した松永安左エ門は、翌年佐賀の広滝水力電気と合併して九州電気、さらに博多電灯を合併し九州電灯鉄道を設立。破竹の勢いで事業を…
1910年(明治43年)に博覧会「九州沖縄八県連合共進会」が開催されることになった福岡市では、都市の発展には欠かせないとして市内電車の敷設が決まります。"福岡に電車を走らせる"…
松永安左エ門は人生において、大きく2度の閑居生活を経験します。最初は31歳の時。日露戦争後のバブル崩壊による明治40年の株の大暴落での大損失、同年に起きた大阪に…
慶應義塾で福澤諭吉の門下生になった安左エ門は、父の急逝により、塾を中退し家業の海運業を継ぎましたが、学問への志が捨てられず3年で廃業、1895年(明治28年)、ふたたび塾に…
安左エ門は1875年(明治8年)、長崎県壱岐郡(現壱岐市)石田村印通寺に生まれました。安左エ門の祖父が、一代で呉服販売や酒造業、船舶運送など多くの事業を展開し、…
定村館長は昭和26年、壱岐生まれ。13年前より記念館の仕事に携わっています。「壱岐出身者にとって安左エ門は雲の上の存在であり、誇りでもあります。晩年、壱岐に帰ってきた時は、…
博多港より高速船で約1時間。玄界灘に浮かぶ風光明媚な島、長崎県壱岐に「松永安左エ門記念館」はあります。明治、大正、昭和と三時代にわたり日本の電力の普及と振興に努め、…
日本の電力の普及と振興に努め、産業界、政財界などにも多大な影響を与えた人物。その鉄のような固い意思とあふれる先見性により日本の産業経済発展の礎を築いた。この…