「電力の鬼」と呼ばれた不屈の事業家
2015年2月3日
日本の電力の普及と振興に努め、産業界、政財界などにも多大な影響を与えた人物。
その鉄のような固い意思とあふれる先見性により日本の産業経済発展の礎を築いた。
この松永安左エ門の人生とその思いをご紹介いたします。
明治8年に壱岐島の旧家に生まれた安左エ門は、14歳で福沢諭吉を慕い慶応義塾へ入塾する。諭吉にかわいがられるなかで、人生形成について大きな基盤をつくった。常に10年、20年先を考え、自分の利益だけでなく日本という国の将来にターゲットをあてて物事を見極める目は、この時に培われたものであり、生涯貫かれた信念であった。父の死去によって慶応義塾を中退し、家業を継ぐが3年で廃業となった。その後、慶応へ復学するが、卒業を待たず中退し、日本銀行に就職した。しかし、サラリーマン生活になじめず1年で退職し、材木商、綿糸ブローカー、石炭商、コークス商などを試みた。特に、石炭商で大儲けし、人脈ができた。その人脈によって北九州での電力に目が向き、のちに九州電気株式会社を設立、電力業経営へと注力していく。
当時の日本では、財閥が日本全体の富の7割を占めており、政治や産業界に大きな影響力をもっていた。しかし、安左エ門の持論は、産業は自由競争の立場で企業者は創意工夫をしながら大成してゆく、というものだった。加えて、安左エ門は自分が正しいと思ったことは権力に屈服しない、筋金入りの反骨精神の持ち主であった。この曲げることのない持論と安左エ門の人柄も手伝って、九州から関西、東海道の電力会社を次々と傘下にしていった。大正12年に起こった大震災で被害を受けた東京、横浜の電力会社は安左エ門に助けを求めた。人を何よりも大事にした安左エ門のもと、当時副社長をしていた東邦電力の社員は物に憑かれたように一糸乱れず、火の玉のごとく目標に向かって突進していくほどの働きぶりだった。こうして、安左エ門は東邦電力(九州電力の前身)を中心として、東北電気、東京電力など約100社ほどを支配下にしていった。
やがて日本は、軍部の統制が強まり、国家において電力の送電と発電を統制管理すると発表した。日本の発展は産業界の成長なくして行われないとする自由主義経済を唱えていた安左エ門は、電力国家管理に反発して、「(軍部と手を握った)官僚は人間のクズである」と言い放ち、身の危険を顧みず反対運動を続けた。
しかし、昭和12年「電力国家管理案」は国会で通過し、翌年日本発送電(株)を設立、昭和14年には戦争に突入した。安左エ門は、「俺は会社をやめる」と言い残し、一切の事業から手を引き隠居してしまう。すでに61歳になっていた安左エ門は、埼玉県所沢にある柳ケ瀬山荘で茶道三昧の日々を送ることとなる。このとき、すでに欧米の数々の電力施設などを視察していた安左エ門は、欧米の工業力、技術力に日本が到底勝てるはずがないと確信しており、これからの日本を思うと心中は暗かった。
終戦を迎えた昭和20年。安左エ門が現役を去ってから、すでに10年の月日が経っていた。安左エ門、74歳。占領軍総司令部(GHQ)の支配下となった日本は、民主化政策として財閥解体、農地解放、電力事業の民営化を推進することとなった。電気事業再編のリーダーとしてふさわしい人間は誰か。電気事業を知り尽くし、軍国主義に屈しなかった人間。それはまぎれもない安左エ門であった。こうして、安左エ門に白羽の矢が立った。
安左エ門は、戦後の日本復興を支えるのは電力であり、電気事業の競争による発展が欠かせないとの信念をもっていた。安左エ門の構想は、戦中の日本発送電を含むすべての設備を分割し、九つの配電会社に配分し、地域ごとに電力配給の責任をもつ「九分割案」体制であった。しかし、「中央の日本発送電を残す案」を推薦する安左エ門を除く他の委員や財界人とも、「十分割案」を考えていたGHQとも意見の一致をみなかった。
そこで、安左エ門は時の通産大臣、池田勇人を訪ね、日本の復興と電力再編成について熱心に持論を説明し、まず国の発展を優先させる主張を展開した。その熱心さに池田は感心し、安左エ門案を了承した。とはいっても、池田が賛成しても国会が通らなければ決議はされぬとの反対派により、さまざまな画策があった。安左エ門は抵抗に屈することなくGHQへも足繁く通い、自説の説得にあたった。GHQは安左エ門の並外れた熱意と誠実さに惚れ込み、次第に信頼関係を築いていった。講和条約の成立によって占領地行政を早く終わらせたかったGHQの意向も追い風になり、総司令官マッカーサーより安左エ門の案が命令されたのである。孤軍奮闘のなかにおいても、安左エ門の根気強さが勝利した瞬間であった。
昭和26年「九電力体制」が整うと、まず着手したのは研究所の設立であった。安左エ門は東邦電力時代から学者や技術者を大切にし、養成教育に力を注いでいた。その人々が立派に育ち、敗戦日本の再建に多いに活躍していた経験から研究資金や人材育成の資金負担を軽減し、活性化する必要性を強く感じていたのである。こうして昭和26年、電力技術研究所を設立した。さらに、電気事業の技術研究だけでなく、より適正な料金体系の研究やコンピュータなどの設備に対応する経済研究部門を併設し、電力中央研究所に改組した。 初代理事長には前日本発送電総裁の大西英一氏が就任し、2代目には安左エ門が自ら理事長となり、電力設備の近代化と電源開発を推進するリーダーシップを発揮していった。
昭和26年、民営の九電力体制の整備にあたり、電気料金の適正価格算出を行った。各電力会社の要望は76%の値上げというものだった。電力需要の上昇に伴い、燃料の石炭が需要に追いつかず、できたばかりの電力会社にとっては発電設備も乏しく停電解消が精一杯の経営状態であったためである。値上げに対して世論の猛反発があるなか、安左エ門は日本復興のため10年、20年を見通して、値上げは必要なことだと主張した。まさにこのとき「電力の鬼」と呼ばれたのである。結局、GHQの命令で値上げが実施されたが、結果的には低迷をしていた電力株が高騰し電力業界が活性化した。その資金により電源開発にも成功し、日本の高度成長期を支えていったのである。
安左エ門の先見性は留まることを知らず、昭和31年には日本の政・財・学・官界のトップで構成する「産業計画会議」を自ら主催し、16のレコメンデーション(勧告)を発表し、議員や大臣、関係者に働きかけた。専売公社の廃止、国鉄の民営化、高速道路の整備など、日本の近代化を推し進めるプロジェクトであり、その大部分が後世に実現している。あわせて、電力設備の近代化と電源開発も推し進めた。水力に頼っていた電源が火力へシフトすると予測し、燃料も石炭から石油へと設備を拡充していった。さらに、原子力へも目を向け、昭和41年には研究所内に事務局を置く「フェルミ炉委員会」を発足。技術者などを次々とアメリカへ派遣した。日本の原子力基盤を築いた多くは、このときの研修生である。その後も、昭和44年には、電気事業研究の国際的協力と情報交換を目的とするIERE(電気事業研究国際協力機構)を発足させた。日本の将来にわたる電気事業の基盤づくりすべてが安左エ門の手によって築かれていったのである。
昭和46年、96歳で亡くなるまで電気事業の世界に、そして経済界、産業界に影響を与え続け、近代日本の発展を導いていった。
協力:一般財団法人電力中央研究所
明治8年 | 12月1日 | 長崎県壱岐郡石田町印通寺浦に生まれる |
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明治22年 | 14歳 | 慶応義塾に入学 |
明治26年 | 18歳 | 父の死により慶応義塾を退学、家業を継ぎ三代目安左エ門を襲名 |
明治28年 | 20歳 | 家業を弟・英太郎にゆだね上京、慶応義塾に復学 |
明治31年 | 23歳 | 慶応をあと1年で退学、福沢諭吉の記念帳に「我が人生は闘争なり」と書く |
明治32年 | 24歳 | 日本銀行へ就職 |
明治33年 | 25歳 | 日本銀行を退社。福沢桃介の丸三商店神戸支店長となる |
明治34年 | 26歳 | 神戸で福松商会を創立する |
明治37年 | 29歳 | 竹岡カズ(大分県中津市)と結婚、石炭販売で活躍 |
明治42年 | 34歳 | 福博電気軌道株式会社を設立 |
明治43年 | 35歳 | 九州電気株式会社設立発起人総代として広滝水力電気と合併、 九州電気の取締役となる 福岡に電車を走らせる |
明治45年 | 37歳 | 博多電灯(福岡電軌と合併)は九州電気を合併 |
大正元年 | 九州電灯鉄道常務取締役となる | |
大正2年 | 38歳 | 九州地方のガス会社10社を合同させて西部合同ガスを創立 |
大正4年 | 40歳 | 九州電気協会設立、会長となる |
大正5年 | 41歳 | 九州耐火煉瓦創立 |
大正6年 | 42歳 | 博多商工会議所会頭に推される 福岡県選出の代議士(衆議院議員)に当選 |
大正9年 | 45歳 | 雑誌の読者投票で日本三大美男に選ばれる |
大正11年 | 47歳 | 九州電灯鉄道と関西電機と合併し東邦電力を設立 |
大正13年 | 49歳 | (社)日本電気協会会長に選任される |
昭和7年 | 57歳 | 翁の支配資本は14億円に及び名実ともに日本の「電力王」と呼ばれる |
昭和9年 | 59歳 | 「耳庵」と号し茶道に親しむ |
昭和14年 | 64歳 | 電力国家管理に大反対するも国家総動員法による「国家電力管理」となり 日本発送電会社ができる |
昭和15年 | 65歳 | 大政翼賛会総裁や大蔵大臣などに推されるが公職を一切断る |
昭和16年 | 66歳 | 大東亜戦争に入る。柳ケ瀬山荘に閑居する |
昭和25年 | 75歳 | 公益事業委員長代理に就任 国家管理によって失敗した日本電気事業の実権を握る |
昭和26年 | 76歳 | 電力事業再編成(民営化)を強行し「電力の鬼」と称される |
昭和30年 | 80歳 | 石油時代到来、原子力は20年先と予言する |
昭和31年 | 81歳 | 産業計画会議を作り次々に提案勧告を出す |
昭和39年 | 89歳 | 勲一等瑞宝章を贈られる |
昭和43年 | 93歳 | 慶応義塾創立100年記念式典にて「名誉博士号」を受ける |
昭和46年 | 6月16日 | 96歳の生涯を閉じる |