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1970年代のあゆみ

激動するエネルギー情勢に挑戦

日本経済は変動相場制への移行などにより高度成長が足踏みし、さらに、度にわたる石油危機に直面したことで、インフレ、不況、国際収支の赤字に見舞われた。
しかし、石油や電気の節約、輸出主導による貿易黒字転換など、政府の政策が奏功し、景気低迷は短期で終息に向かった。
九州電力は激動するエネルギー情勢のなかで、経営基盤の安定に全力を注いだ。

時代背景

石油危機と日本の経済的責任の増大

日本経済は、1971月に米国が発表した新経済政策いわゆるニクソンショックを契機に揺らぎ始め、変動相場制への移行などにより、高度成長は足踏みを余儀なくされた。
その後、1973年10月の第次中東戦争に端を発する第次石油危機によって、日本経済は「狂乱物価」と呼ばれる物価上昇と不況に見舞われた。
次石油危機による世界的な不況のなかで、1975年には第回サミットが開催され、戦後初めて日本の首相と欧米主要国首脳とが一堂に会し、世界における日本の経済的責任が重要視されることになった。
さらに、1979年に第次石油危機が発生、日本は再びインフレに見舞われたが、第次石油危機に比べ比較的小さな影響にとどまった。

揺れ動く電力需要

電力の需要は、ニクソンショック後もかなりの伸びを示していたが、1974年以降は、度にわたる石油危機の経験による節電意識の浸透もあって、1980年度までの年間の年平均伸び率は5.3%と従来に比べて低い伸びにとどまった。
電灯需要は、1965年以降の住宅ブームや家電機器の普及率の上昇などにより順調な伸びを示したものの、石油危機後は省エネルギーの浸透などのため鈍化した。しかしながら、1980年度には創立時の16.3倍となり、この10年間の年平均伸び率は%となっている。
一方、電力需要についてみると、業務用需要は都市化の進展や都市再開発にともなう百貨店・スーパー・事務所用などのビルの増加や高層化により順調な伸びを示し、1980年度には創立時の32.6倍となり、この10年間の年平均伸び率は14%という非常に高い伸びを示した。
産業別にみると、石炭は1970年度に比べ割滅となった。化学は石油コンビナートが操業を開始したが、自家発電中心であることなどから、ほぼ横ばい状態を続けた。鉄鋼は高炉の建設で1976年度ごろまで急成長を続けたが、その後は景気の停滞、自家発電力量の増大によりこの10年間で1.4倍の増加にとどまった。セメントは公共投資、民間設備投資の活況により、この10年間で倍に伸びた。

電源の多様化と輸送設備の充実

電源の多様化の展開

九州電力は第次石油危機以後、石油代替エネルギーの開発を目指して電源の多様化を積極的に進めた。
石油代替エネルギーの主役である原子力は、1975年および1976年に玄海原子力発電所号機(各559000kW)が運転を開始し、脱石油の推進と経営収支の安定に大きく貢献した。
火力では1973年にLNGの導入を決定し、1977年に新小倉発電所号機をLNG専焼に改造し、さらに号機(各60kW)が1978年から1979年にかけて相次いで運転を開始した。また、重原油火力としては唐津発電所号機をはじめとする375000kW基、唐津発電所号機をはじめとする50kW基が運転を開始した。さらに、九州電力か所目の地熱発電所である八丁原発電所号機が出力3000kWで1977年に運転を開始した。
水力では、1975年に当時世界最高揚程の大型揚水である大平発電所号機(各25kW)が運転を開始した。
このような設備の開発量の増大により、設備投資額の巨額化は不可避であった。この資金の確保のため、資金源の多様化を図るとともに、インパクトローンの導入やスイスフラン建外債の発行を実施した。また、1979年月には増資コストの低減および財務体質の改善を図るため、株主割当および九州電力初の時価発行公募増資を実施した。

50万ボルト送電時代の幕開け

佐賀幹線が九州電力で初めての50万ボルト送電線として1973年に完成し、22ボルトで運用を開始したが、1980年、広域電源である松島火力発電所の運転開始を契機に、50ボルトの中央・西九州変電所を新設し、佐賀幹線を50ボルトに昇圧した。ここに九州の基幹系統は、22ボルトの出現から約20年後に50ボルト時代の幕開けを迎えることとなった。同時に、50ボルト西地域連系線の一環として、関門連系線および北九州変電所が運用を開始し、九州~中国~関西が50ボルトで連系され、広域運営は新たな展開をみせることとなった。

経営効率化の推進

料金改定と多様な料金制度の導入

次石油危機による原油価格の大幅値上げで、電気料金を1974年に1961年以降13年ぶりに改定した。改定率は電力の合計で56.82%、九州電力は48.07%と大幅な改定となった。
電灯については段階の料金制度を導入し、第段階の料金については福祉政策的な配慮から割安料金を設定、電力についても特別料金制度を設けた。

経営効率推進と組織・要員の効率化

九州電力は、厳しい経営環境に対処するため、1972月の社達「経営能率刷新のより一層の推進について」に基づき、要員の割程度の合理化を目標に組織機構の抜本的改正および諸業務処理の効率化・見直しを行うこととした。1973年月には、支店の中間管理機能の見直しを行い、執行業務を現業機関に移管して、自主即決体制を強化した。
さらに、第次石油危機以降、不安定なエネルギ一情勢や工事資金の巨額化で、九州電力の経営は厳しさを増していったため、1976年月に緊急経営対策本部、1977年月に経営効率推進本部を設置し、設備投資や組織制度など経営全般の効率化を推進した。
その結果、従業員数は創立時の9121人から1980年度末には4238人となり、約30年で4883人減少した。

総合機械化・オンライン化による業務の効率化

業務の機械化は、1955年の統計会計機導入による給与計算と電気料金計算などに始まったが、1965年には電子計算機が導入され、膨大な定型業務の処理を行うバッチ処理システムを開発し、適用範囲を拡大していった。こうした情報化は、定型・単純・大量業務の削減に大きく寄与することになった。
1975年代に入ると、情報処理と電子通信技術の進展を背景に、電気使用の申し込みから検針・集金に至る一連の営業業務を対象とした営業オンラインシステムを開発するなど、オンライン時代の幕開けを迎えた。

立地の推進と環境保全への取り組み

困難化した立地対策

経済の高度成長にともなって国民の生活水準が向上し、権利意識が強まるとともに、自然環境への関心も高まった。そのため、電源地点の確保などは次第に困難の度を強めていった。
電源設備に関しては、環境調査の申し入れから運転を開始するまでの期間が年々長期化し、輸送設備についても、用地交渉は難航するようになってきた。
九州電力は地域振興への協力やPA活動を進め、地元住民の理解を得られるように努めた。

環境影響評価の実施

発電所建設の計画段階から運転開始後の監視体制を含む一貫した環境保全対策の整備を図るため、環境影響評価(アセスメント)が義務づけられ、九州電力は1973年12月、豊前発電所建設計画において初のアセスメントを実施した。その後、新小倉・川内・苓北・松浦・玄海原子力の各発電所の新・増設計画に際しては、新技術を駆使して環境状況の把握、環境保全対策、環境影響予測・評価などを実施した。

大気汚染防止対策

1960年代後半に入り、硫黄酸化物などによる大気汚染が深刻化してきたため、九州電力では低硫黄重油の使用、排煙脱硫装置の設置、LNGの導入などを推進し硫黄酸化物の排出を抑制した。また、燃焼方式の改善や排煙脱硝装置・電気式集じん装置を設置し、窒素酸化物やばいじんの排出を減少させるなど総合的な対策を講じた。